ー 40周年おめでとうございます。創立の経緯を教えて下さい。
私自身は設立には関わってないのですが、江東区には1983年までは身体・知的障害の方を対象にした共同作業所しかありませんでした。そこで精神障害の方のための作業所を作ろうという当事者、家族、福祉保健関係者、市民の取り組みにより、1983年4月に亀戸にある「五和貴江東クリニック」の一部屋をお借りして、江東区で最初の精神障害者のための共同作業所が開設されました。3畳の部屋で利用者5名がハンガーのバリ取りの作業を行い、職員は廊下で仕事をしていました。
ー 今だと大問題ですよ(笑)
開設直後から利用希望者が増え、より広い場所を求めて1983年㋈に東陽町へ、翌84年5月に千田へ、86年4月に海辺へと移転を繰り返しました。最初は助成金ゼロで、バザーや寄付で、やっと職員に給与を支給していました。その後、1986年4月に2か所目の作業所,1988年に3か所目の作業所、1994年に4か所目の作業所、1996年に最初のグループホーム、1999年に2か所目のグループホームを開設、2001年9月に社会福祉法人おあしす福祉会を設立し現在に至ります。
1983年 五和貴江東クリニック(亀戸)の三畳一間 / 1993年 開設10周年記念式典(亀戸・平安閣)/ 2001年10月社会福祉法人おあしす福祉会設立
私は1976年に東京大学医学部を卒業して、東大病院精神神経科で研修をしていました。当時、東大病院精神神経科は東大紛争の影響で病棟が占拠されていて使えませんでした。そのため外来診療のほかに、自閉症を中心とする発達障害児のための小児部と、統合失調症を中心とする成人のデイホスピタルがありました。私は外来診療のほかにデイホスピタルで集団療法に取り組んでいました。1978年に江東区深川保健所からデイケア(生活教室)を始めるので、医師を派遣してほしいと東大デイホスピタルに依頼がありました。当時私は江東区越中島に住んでいたので、地元でのフィールドワークとして生活教室の活動に参加しました。その後深川保健所の精神保健相談も行うことになり、月1回の相談のほかに保健師と一緒に家庭訪問などアウトリーチも行い、当時としては先進的な取り組みを行っていました。このように深川保健所で活動している時に、江東区で精神障害者を対象にした共同作業所が出来たことを知ったので、私も一緒に江東区の精神障害者支援に取り組んで行こうと、1985年から作業所の運営に参加するようになりました。
私の精神障害に対する考え方は、「人生において挫折によって精神的苦悩と社会的役割の喪失を経験すると、ものの見方や考え方が歪み変調を来す」、従って精神障害からの回復は「自分の生活や人生を取り戻す」ことによって達成できるというものです。つまり、「脳と心と社会のダイナミックな関連」で捉えることが重要です。このようなモデルを発展させるうえで、精神科医としての診療活動、認知精神生理学的研究(精神障害者の認知機能の歪みとその回復を脳波、誘発電位、脳磁図、眼球運動などで研究)、地域での精神障害者の生活支援、の3本柱で取り組んできました。とりわけ、おあしす福祉会で職員とともに取り組んだ利用者の支援をとおして、多くのことを学ばせてもらいましたが、特におあしすを利用しながら自分の人生や生きがいを取り戻していった利用者の人たちが私に多くのことを教えてくれました。
1997年 10年ぶりの大バザー / 1998年 琉球大学・沖縄との交流
ー 私自身もそうですが、医療の分野にいながら、経営に関わっていく事になるのは、法人化した事がきっかけだったのですか?
当初から私の役割はまとめ役です。障害者総合福祉法が施行されてから、法に基づいて障害福祉サービスを提供することによって国から給付費が支払われるようになりました。しかし、給付費収入の対象にならないことはやらないことにならないよう、利用者の自立や回復に必要な支援は給付費の対象にならなくてもできるだけやるようにしています。これは設立当初からおあしす福祉会の理念になっています。経営は私が一番苦手な分野なので、管理職の職員や理事や支援していただいている協力者の方々の助言をいただいて運営を進めています。私は、適時「こうゆうことができないか」と意見を述べる程度です。
ー 私はおあしす福祉会の理事を務めさせて頂いていますが、平松理事長は、運営・経営に細かい事をいわない為か、職員は自分達で議論するのが好きだし、自分達の方針を持って行動するように見えます。
管理職クラスはその通りですね。私が最終的な判断はしますが、毎週行っている管理職会議に私も参加して法人の方針を決めています。
ー おあしす福祉会は今後、精神障害に特化するのでしょうか、それとも、枠を広げるのでしょうか?
残念ながら、障害がある、というだけで、人としての当たり前の権利が認められないのが現状です。障害があるだけで仕事に就けないし、差別や偏見もありますので、障害が有る方が安心して居られる場を創る必要があります。しかし、その居場所それ自体も社会から受け入れられていないと、だめです。障害があっても、一人の人間として生きていくことができる、それが出来れば精神障害も回復する。それをどう実現するか? その為には事業所の中での支援だけでは不十分です。地域で地域の人々と支えあいながら地域で暮らしていくことが重要でしょう。私達の活動分野は精神障害が中心だとしても、地域の中で生活に困っている人が沢山いる。そういう人達と一緒に行動する事により、生活が改善できるだろうし、お互い一緒に支え合える、そういうのが共生社会ではないでしょうか。
ー 公益事業として居住支援法人を始めたのは、支援対象者を広げていく意思の表れでしょうか?
対象者は拡がります。そもそも困っているのは精神障害だけでないし、様々な住宅確保要配慮者とともに安心して生活できる江東区を目指すことが重要だと考えています。対象を広げて取り組むことで改善出来るという点は、職員も納得しています。もっとも、人手も予算も不足していますが。
ー 居住支援法人を始めたのは、医療だけでなく生活全体を支援したい、というおあしすの出発点にも通じますね。発展する事を願っています。さて、法律も制度もどんどん変わる中、障害福祉の課題は何でしょう?
国際的基準からすれば、日本の医療はまだまだ遅れています。病名をつける、病名をつけると治療ガイドラインに従う、というように、病名を付けた途端、一人の人間としての存在ではなく、〇〇病の人になってしまいます。精神機能は特に、各人固有の考え方の現れで、それこそが人間らしさなのに、病名でレッテルを張る事はリスクがあります。もう一つは、法律上、障害年金の支給基準だけで行政が判断するリスクもあります。一人の人間として具体的に何を必要としているのか、何を悩んでいるのか、が見落とされがちです。
ー 施設から地域への移行はあるものの、制度もサービスも、現状との乖離が拡がっているようです。持続的にサービスする為に、収益を得る必要がありますが、精神障害分野のサービスは、きちんとやればやるほど、大変な側面があり、貢献が還元される仕組みになっていない。この点は、どのようにお考えでしょう?
やりがい等は給付の対象にならず、時間と作業内容が対象になるのも原因かも知れません。また、サービス提供にとどまらず,その人が人間らしい生き方ができるようになることを重視しなければなりません。
ー 福祉法人を運営するだけでも大変なのに、被災地支援にエネルギーを費やす理由は何でしょう?
東北大震災が起きた時、大変な事態を知り、何か出来る事を探し、行動した結果です。2011当初はまずは職員を現地に派遣し、現地で何もできない無力感を味わいました。そうした職員の経験を利用者と共有し、毎日流れる大変な状況のニュースも見て、利用者からも「自分たちも何か力になれないか?」という声が上がり、被災した子どもたちが絵本もおもちゃも津波で失くしたのを知り、おあしす福祉会だからこそ出来る「木のおもちゃ」を送る事にしました。どうせ贈るなら、量産した製品ではなく、一人一人の子どものリクエストに応じて送りました。予想以上に広がり、熊本や福岡でも活動しました。職員だけでなく、精神障害がある利用者も製作者として現地訪問しました。
木のおもちゃを贈った子供たちからのお礼の手紙や写真は利用者にとって「子供たちがこんなに喜んでくれている」と、自分達が「支援される側から他人から喜ばれ感謝される側」になったことを実感させ、回復の大きな一歩となっています。小児がんの子供とその同胞に木のおもちゃを送る活動に取り組んでいます。
(写真上:左・中)2018年 江東区東雲 福島からの避難者による被災地・熊本へのおもちゃ作り
(写真上:右)2019年 熊本県益城(ましき)町第三保育所 / (写真下)熊本県からのお礼状
被災地の子供たちに木のおもちゃを贈る活動とともに、もう一つ特筆すべき活動があります。それは「夏休みこども教室」です。2003年から夏休みに地域の子供たちを対象に毎年開催しています。小学生の子供たちがおあしすに通ってきて、木のおもちゃやステンシル、万華鏡などを作ります。子供たちに教えるのは利用者の人たちです。利用者は子供たちが達成感を得られるように真剣に丁寧に教えてくれます。毎年通ってくる子供も多く、中には中学生になったらボランティアとして手伝いに来てくれた子もいました。夏休みこども教室の講師をした利用者が街でこども教室に参加した子供たちやそのご家族から「先生、今年もまた行くよ」と声をかけられます。この活動は夏休みこども教室を通して、利用者が地域の人たちに喜ばれ、地域の人たちに認められる存在になれることを証明しています。
ー 製作者自ら現地訪問するのは素晴らしいですね。さて、おあしす福祉会のあるべき姿を教えて下さい。
一人一人を大事にする、という事は常に言っています。病名か何かの属性ではなく、個別具体的な人に向き合う。どんなに困っていても人は変わりうる。其々の体験を経て発症した障害であるし、この人は大変な人だよね、という切り捨て方はしません。
ー 様々な言動の根本となる人間観を教えて下さい。
人間はいろいろ間違うし、根っからの悪人はいないはず。精神障害のある人は、むしろ、ある意味、多くの人たちより、はるかに辛い経験を繰り返した人たちだろう、と思っています。
ー おあしす福祉会または個人としてやりたい事はありますか?
私が活動できるのはあと何年あるでしょう?これから10年はきついかな?少しでも何か役に立てる事があれば、やれる間は後々役に立つことが出来れば嬉しいです。一人の人間が出来る事は限られていますので、行政とも連携を望んでいます。
ー 思い描く理想の社会とは何でしょう?
人は誰もが多少過不足がある。目立つものに名前をつけて区別しているだけ。同じ人間同士、違いがどうであれ互いを認め合うことが大事で、困難が大きい人には社会が支援をすることが当たり前な社会になって欲しいですね。
ー 同じ人間同士、お互い様として、許容できる範囲を広げる事が大事という事でしょうか?
それもありますが、それより大事なのは平和でしょうね。ウクライナ侵攻や、イスラエル軍事攻撃等、戦争は存在そのものを否定する行為なので、まずは平和を確保し、その上で互いに認め合う。逆に戦争のような異常な状況の中では人間の存在そのものが危険にさらされるので、人としての在り方が試されると思います。
ー 40年振り返って、職員さん、利用者さん、地域住民、最後に、ご自身への想いを一言でお願いします。
職員に対しては、支援している利用者さんを一人の人間として見ていく。利用者さんには、回復する希望は誰にでもあるので、自ら希望を捨てないように。地域住民に対しては、精神障害と言ったって、誰でもなるんですよ! 自分に対しては、医師としてまた人としてこのような活動にかかわれたことに感謝しています。
(写真)ピアワーク・オアシスの職員様
貴重なお話を聴かせて頂き、有難うございました。
写真左:坂間正章おあしす福祉会理事&NPO法人でぃぐらぶ監事、写真中央:平松謙一理事長、写真右:柳智啓NPO法人でぃぐらぶ代表理事
インタビューを終えて:
平松理事長の話された言葉で「人は変わりうる」「自分の生活や人生を取り戻す」がとても印象的です。これ程、人に対して丁寧に思いを寄せる医師は本当に珍しいと思います。これは患者に向き合う診療活動、学術的な研究、地域における障害者への生活支援、これらにバランス良く懸命に取り組まれてきた実践の中で「人の可能性」を見い出してきた強い思いにより育まれてきたものではないでしょうか?「医療だけでなく生活全体を支援したい」という思いが患者や利用者に対する姿勢にもしっかり現れていているように思います。経営に関わるおあしす福祉会については積極的に地域と繋がりを持ち、支援の対象者も広げていくことの重要性に言及されていました。時代の変化に対応しながら経営的にも柔軟性を持って江東区を代表する社会福祉法人としてさらに発展して頂きたいと思います。
(文責:坂間正章)