インタビュー

【 V o l  . 0 2】 NPO法人 障がい児者ライフサポートたんぽぽの会 理事長 嶋田 知詠子 様

~母の愛が紡ぐ縁・築く共生社会~
嶋田 知詠子 様

NPO法人 障がい児者ライフサポートたんぽぽの会 理事長
社会福祉士/介護福祉士/相談支援専門員
http://www.tanpopo-koto.com/

―昨年、放課後等デイサービス「たんぽぽクラブ」が見事に20周年を迎えました。立ち上げの経緯を教えて下さい。

平成13年度、娘が小学校1年生の時に入会したクラブが、その年度に解散しちゃったんですよね。その時、既に利用者が30人いたのですが、どこにも入れない。そこで区役所に相談し、今の場所を借りて、「たんぽぽ」を立ち上げました。とは言え、全く何も解らないので、北村恵子先生(こぴあクラブ創業者・冬木事業所所長)始め、多くの方々に相談し、皆に手伝って頂きました。夫も送迎車を運転していましたし、親が必死で対応しました。皆で同じ方向を見て、力を合わせました。その中から、丁度、其々の分野を得意とする6人のお母さんが中心となり、役割分担しながら動きました。私は行政との連携や広報を担当していました。

一番最初の職員は、乳幼児親子教室さんからのご紹介で 、「たんぽぽクラブ」に入職され、活躍された素晴らしい女性。皆で基盤創りに奔走し、3年目を終えた時は、ちょっと安心しました。株式会社が行う放課後デイサービスの中には、軽度のお子さんが中心だったりするところもありますが、江東エイト(※江東区で長年、放課後活動をしている8事業所の総称)では重度のお子さんをお受けしている事が多いです。こぴあクラブさんの20周年記念映画は、実に素晴らしかったです。

たんぽぽクラブ20周年記念誌

― 30人のお母様方の中で、何故、嶋田さんが役員を務める事になったのでしょう?生来、内気だったとの噂もありますが(笑)?

誰も信じてくれませんが、内気です(笑) 。ですが、障害を持つ娘が生まれ、苦しかった乳幼児期、いろんな人や課題に出逢ったのが原因かも知れません。重度障害児を持つ母親の北村先生自ら「こぴあクラブ」を立ち上げられていたのは衝撃的でした。娘の代弁者として振る舞い、それが皆の為にも役に立ち、それで人と繋がる事が嬉しかったです。なかなか娘の障害を受け入れられずに苦しみ、その苦しさを障害児者支援運動等で紛らわせていた面もあったでしょう。2010年に、東京都の補助金が打ち切られる可能性が出て、たんぽぽクラブ一丸となって集めた署名が10239名にもなり 、大変有難く嬉しかった思い出です。全国の保護者や関係者たちの運動により、2012 年児童福祉法に放課後等デイサービスが創設されました。

― 自閉症に関する絵本を2冊作成し、新聞にも掲載されたと聴きました。

自閉症の特性を、息子の友達・ママに知って頂きたかった 。絵本と一緒に、万が一迷子になっている娘を見かけたら連絡して頂けるように「 お願いカード 」も近所中や小学校で配りました 。そのカードを今も持っている人がいるんですよ!とにかく、知って頂きたい衝動です。この絵本は、小学校の図書館にも置いて頂き、読んで下さった PTA のお母様達が、同じ地域なのに障害児の学校がどこにあるかも知らなかったと言って、娘が通う特別支援学校の見学にも来てくれました。最初は五体満足だけを願っていたのが、成長するにつれ、いろんな要求が出てきてしまう 。何気ない日常がどれだけ尊いのかを感じて頂きたかった こともあったのだと思います 。

― 「たんぽぽクラブ」の今後を御聞かせ下さい。

継続したいです。法や報酬の改定等を乗り越えなければいけないので、柔軟な対応も求められるでしょう。また、成人期の余暇の居場所創りや日中のケアも検討しています。制度に乗ると制約が多くなるので、福祉のお皿に乗らない、制度のハザマにいる子達がいろんな経験を楽しみつつ、何か社会と結び付けられないか、を思案中です。今、その為にネットワークを拡げている最中です。音楽、農業、絵画、いろんな点を繋げられると良いと思います。

― ゴスペルを始めたのは 、 どのような流れだったのでしょう?

2017年、娘が高校二年生になった時、18歳以降は障害者の余暇を支援する制度が整っておらず、まずは月一回、卒業生に集まって頂き「わたげの会」を作りました。その後、ゴスペル・ディレクターのありあさんがアルバイトで入ってきて、その歌声に皆が魅せられ、「 私の子どもにも聞かせたい 」というスタッフの一言から始まりました 。

― 2019年の世界自閉症啓発デーに東京タワーで、ゴスペルを歌った事もありました。一体、どうやって実現したのでしょう?

2017年に、江東ロータリークラブの定例会にお招きいただき、国分寺の社会福祉法人「Ann Bee」さんの講話を聴きに行きました。この講演の時に名刺交換した江東ロータリークラブの犬塚さんという方が実家近所の会社代表をされていて、やり取りを重ねていく中で、「何か一緒にやれることはないのかい?」と尋ねてくれました。「ゴスペルを発表する場がないのです」と言ったら、4か月後にイースト21社会福祉フェスティバルというイベントを用意して下さいました。そのイベントを見ていた自閉症協会の方が、東京タワーで歌うステージを用意して下さったり、区役所の方がMEGA WEBに繋いで下さいました。ゴスペルには、地域の人達がサポートに入って下さいました。本当に、繋がって繋がりました。御縁は本当に不思議ですよね 。たまたま話した人がその先へと繋がって下さる事が多いんですよね。

お台場MEGA WEB東京都主催NO LIMIT / 世界自閉症啓発デー・東京タワー 

お江戸深川さくらまつり・世界自閉症啓発デー / 第3回社会福祉フェスティバル

― 障害者の記念撮影スタジオ「乃まま」が始まった経緯を教えて下さい。

※厚生労働省シンポジウムに登壇した際に放映された撮影事業動画:https://www.youtube.com/watch?v=ibUCXdEzlE4

娘が高校卒業後、江東特別支援学校PTA主催の研修会に、同級生ママ2名と私が卒業後の生活についてのパネラーとして呼ばれました。母親3人で研修会の打合せがてら集まった時に「もうすぐ二十歳だよね」と話す中、実家が呉服屋で着物を持っている私が着付けが出来て、もう一人のママがカメラが得意、もう一人のママもヘアメイクが出来る事が偶然解りました。そこで、「よし、やろう!」という事で、あっと言う間に立ち上がりました。楽しかったですネ!障害のある娘も他の子ども達も、皆、非日常を感じ、味わい、誰一人、拒否する事なく、楽しみ、大人になった姿を見せてくれました。着付けの対象も、口コミで、知的障害ある子から、だんだん広がり、身体障害が重度の車椅子ユーザーからもご依頼が入るようになりました。車椅子のお嬢さんの家を何度か訪問し、体を触らせて頂き、また新たな気づきがありました。命の尊さを改めて学ばさせて頂きました 。

― 「 乃まま 」 が 「 studio bloom 」 に発展したのは?

「たんぽぽクラブ」を撮影スタジオに変更するのは大変なんです。重い絨毯を敷いて、振袖一式・袴・草履等、いろんなものを運び込むので、このまま続けられるかな、と思っていた矢先、コロナ禍の中、築 37 年の自宅が激しく漏水した為、更地にしてマンションにする計画が出てきました。そして、夫の協力があり、1階を嶋田木材事務所兼スタジオにする案が出てきたんです。娘が青森の施設に入所した時から 運命の歯車が回り始めた感じがします。

― さて、昨年11月、青森に住む有華さんへの想いから「studio bloom」で青森物産展を開催されました。その経緯を教えて下さい 。※江東区と青森が繋がった理由:https://shohgaisha.com/column/child_detail?id=2615

まずは高野フルーツパーラーに感謝です!こんな誰とも解らぬ人を青森県知事に会わせよう、と決断して下さったマネージャーさん。サクランボの事を電話で訪ねてきた良く解らぬ客の気持ちを汲んで下さったのです。青森が首都圏向けの高級品として品種改良し、やっと製品化出来たサクランボ「ハートビート」。マンション竣工のお礼として、娘の事も心配してくれた親戚にプレゼントしたいと思いつきました。高野フルーツパーラーで三村知事にお会いした後に、三村知事から青森物産展のご提案を頂きました 。

青森物産展 三村申吾・前青森県知事と / 山﨑孝明・ 前江東区区長等と

 沢山の住民の皆様の他、青森県知事も、江東区区長も、江東区区議も来店され、見事完売。今後はどのように青森イベントを考えていますか?

昨年12月、3年ぶりに青森の施設に行って、他の保護者の皆様に、物産展の話をしたら、皆さん、「是非、行きたかった!」と仰って下さりました。やっぱり青森と東京って遠く離れているから、皆さん、何とか繋がりたいって思っています。私も、青森って遠いけど、何か繋がりがあり、皆の目が少しでも青森に向いてくれるといいな、っていう気持ちがあります。江東区から多くの重度障害者が青森へ入所しているという現実、託した親も青森を身近に感じられればいいだろうし。やっぱり子どもを青森に託すと、ずっと青森の事が気になります。もうニュースやテレビ、天気予報も青森を見るし。住宅街でのイベントは、近所の方にも影響があるので、Park Community KIBACO(江東区木場5-7木場公園内)さんの前で出来るなら有難いです。

2023年5月KIBACOで開催された青森物産展 木村区長等と / ゴスペル仲間等と

― ノーマライゼーションやインクルーシブに対して何が必要でしょう?

障害者の法律は健常者が作っていくので、どこかで見ていて欲しい、特に子どもの頃に障害のある子と触れ合って欲しい、と思います。障害児者と健常者を、どう繋げるか、ダイレクトは難しいので、クッションを置いて、調整する繋ぎの部分・人が大事だと思います。「まぜこぜ」はとっても良いと思いますが、「まぜこぜ」の中にいられる人・いられない人は其々いるので、「まぜこぜ」にした時のフォローアップが大事なのでしょうね。単に混ぜれば良いのではなく、場に合った混ぜ方とか、空間の作り方が強く問われてくると思います。其々が別々に独立している事が多いので、やっぱり繋ぐ人が必要なのでしょう 。全く障害者を知らない人はどうしていいか解らないですよね。そこを上手く誘導してあげれば、互いの世界を知る事が出来そうな気がします 。実践してみれば、そのエネルギーから、きっとお互いに学ぶことがあるはずで、大きな可能性は感じます。お互いに何か違いを感じるのは、お互いに面白いんじゃないかなって思ったりもします 。

― 誰にでも優しいユニバーサル店 ・ 施設への期待があれば教えて下さい 。

例えば、美容院BASSAの井上さん(https://beauty.hotpepper.jp/slnH000484555/ )は、娘がお世話になりました。とても自然体の方で、障害を全然構わないでいてくれるんです。相談に乗って下さりながら、綺麗にしてくれます 。共生社会を目指す動きはありますが、やるせない思いをしてきました。私も辛い事が一杯ありました。障害が重度だと、やっぱり中々連れて歩けない。週末は、夢の島にある一本道を、障害ある娘と二人でずっと歩いていました。ずっと先に自動販売機があるので、娘はそれを励みに歩いていました。大勢の人がいる処に行くとパニックを起こしたり、何をするか解らないので、よくヨットハーバーの脇の桜並木を歩いていました。忙しい日常でも休日は娘とゆっくり歩いて四季を感じたり、空を眺めたり、会話は出来ませんが、娘から沢山の事を教わりました。大切な時間だったと思います。ディズニーランドとかも、良かれと思って連れて行くんだけど、本人もきついんでしょうね。音も人とは違うように聞こえるだろうし、待たされたりで。 だから、健常の子どもが喜びそうな処に行く必要はないんだ、ってやっと気が付きました。親だから、色んな経験をさせてあげたい、ってすごく思うんだけど、今思うと本人もきつかったかも知れません 。かといって、何も経験させたくないわけじゃなく、そのジレンマがありましたね 。

― 障害者について一般には知られていない事で 、 知っておいた方がいい事ってありますか?

知的障害のある自閉症の子はコミュニケーションの取りずらさがありますが、コミュニケーションを取りたくないわけじゃないと思うんですよ。全然こっちに興味がないようにしてるんですけど、実はすごく興味あって、すごく人が好きだったりします。表現が難しいので、興味なさそうに自分の世界に閉じこもってるように見えるんだけど。なかなかアプローチないんだなと思って諦めずに、ちょっと糸口があると寄ってきて関係性が生まれたりもします 。何か同じものを一緒に見たりとか、何かクッションがあるといい。直接向き合うと難しくても、何かあると一緒に出来たりします。その子のそれぞれ得意なモノ・好きなモノを一緒にやってみたり。聴覚過敏の方々はゴスペルに参加しないと思っていたけれど、イヤーマフしながら、ゴスペルや先生が大好きで、練習に来てくれています。とても良い表情を見せてくれます。

― 今、自分を褒めるとしたらどんなことでしょう?

健康でいる事ですね。休んだ事ないし!健康で今自分が生きている事を褒めたい。生きていること自体がすごい。私、姉を13歳で、兄を33歳で亡くしているので、命ある事がすごく有難いし、元気な自分を褒めたいです!とても優しい兄が、前日に引越しを手伝いに来てくれて、洋服を掛けながら「お前ね、喪服っていうのは直ぐ使うかも知れないから一番前に掛けておくよ」って一番前にかけたら、翌日に亡くなったんですよ。釣り竿を磨いている状態で見つかったんですけど、あっけなかったですよね。二人とも突然死だったので、人間って直ぐ死んじゃうんだと思いました。身近な元気な人達が、ずっと元気でいそうだけれど、突然死んでしまう。だから自分も何時どうなるか解らないっていう気持ちで生きてきました。それで、娘に関しても、私が生きてる間にちゃんとしておきたい、という気持ちが強かったです。別に差し迫っているように見えないみたいで、よく聞かれるのですが、心の中では、幼い頃から13超えられるかな?とか33まで生きれるかな?ってやっぱり思っていました。そういう背景があるので、なおさら、娘を手放す時期が、皆さんより潔くて早かった。待ったなしで考えていました。

― 最後に、有華さんへの想いを聴かせて下さい。

素晴らしい子です。健気で何て可愛いんだと思います。手放して思ったんですけど、思ってた以上に大人でしっかりしてましたね。家に居た頃は、出来ないものだという固定観念で、先回りばかりしちゃって、アクシデントを避けて、全部世話しちゃったけれど、チャレンジする機会を失わせちゃったとか反省ばっかり。だけど、いざこうやって離れると、出来る事は自分でやり、本当に出来ない事はちゃんと自分で人に頼み、すごいメリハリが出来ています。一生懸命食べて一生懸命一人で生活して本当に素晴らしい。「娘は一人では出来ない」「私じゃなければ駄目だ」と長い間、思っていたけど、施設に入れてみたら、とっても大人で素敵な女性でした。久しぶりに青森で会っても、切り替えがすごい。東京に帰る日に、メロンパンを食べると切り替えるんですけど、私の方すら見ない。振り返らないで施設に帰っていく。潔いですよね。その寂しさとか、潔さとか、痛みを、痛いほど解るから本当に健気で愛おしいですよ。この子は、精一杯生きていて、本当は「ママ」って言って、飛びつかれてきてもおかしくないんだけど。ただ、お兄ちゃんに対しては違いましたね。仕事の都合で1日早く帰るお兄ちゃんを駅まで見送りに行ったら、改札の前で、お兄ちゃんを離さないんですよ。お兄ちゃんも困っちゃったんだけれど、有華が紙が好きな特性を知ってるいるので、自分のお財布からいらないレシートを出して、有華がそれで遊んでる間に「じゃあねっ」て帰って行ったんです。お兄ちゃんは、無理に振り解きたくなかったのでしょうね。紙切れ知ってるのも兄弟だなぁって思うし。有華は紙切れ触りながらずっと見送ってました。今でもね胸が痛い。でもまあ、大人になってくれたので、2人とも有難いですよね。

娘に障害があった御縁で人との繋がりが拡がるのを感じます。今日だって、本当に嬉しい。健常の息子の関係では、其々巣立っていくので深くなり難いんです。それに、いろんな角度から物事を見る事が出来るようになります。また、自分を試される。どう対応するか、自分の心に向き合わざるを得ません。話すのは簡単ですけれど、うまく表現出来ない子ども達の想いを想像力働かせながら、汲み取っていく。この点、職員の皆さんには頭が下がります。武勇伝みたいに大笑いして話す姿を通じて、素晴らしい人間性に触れられます。飾らず心から話し合える不思議な世界が出来ています

※ インタビューを終えて 

沢山の困難を乗り越え、生の喜びに満ちた嶋田さんの笑顔は美しい!内気だった嶋田さんは、有華さんに突き動かされたように行動し、沢山の人々を繋ぎながら、次々と運を手繰り寄せ、愛溢れる素晴らしい世界を築いてきました。有華さんが、沢山の人々を繋ぎ、より成熟した共生社会への発展に貢献してきた、とも言えます。親子で見事な華を咲かせて下さいました。(文責:柳 智啓)


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